8月26日(月)、フリーアナウンサーの大和田新さんと福島第一原子力発電所を見学してきました。
福島県は地震や津波の被害で亡くなった方が1,831名、震災関連死として亡くなった方が2,343名います。
地震や津波などの直接死よりも、震災関連死の方が多い県は、被災した県の中でも福島県だけです。
原子力発電所の事故は、故郷を奪い、そこにあった地元の方々のコミュニティも奪いました。
風評被害を産み、避難先での生活も困難になりました。
「放射能が移る」と差別の対象になったこともありました。
福島第一原子力発電所は、SORAアニマルシェルターとも深くかかわりがあります。
原発事故が無ければ、SORAアニマルシェルターはありません。
シェルターと深く関わりのある福島第一原子力発電所ですが、私は一度もその場所に行ったことがありませんでした。
そこで今回、大和田さんと一緒に、初めて福島第一原子力発電所を見学しました。
原発に行くまでの道中には、様々なストーリーがありました。
まずは浪江町の津島という地域を訪れました。
最初に車を降りて見た津島の景色は、震災から時が止まったままの商店でした。
部屋中が落ちたもので散らかり、家の電気が大きく傾いたまま、13年間そのままになっていました。
津島は震災以前、1400人が住む地域で、大きくて立派な小学校、中学校、高校もありました。
校舎やグラウンドはそのままで、生徒だけがいなくなってしまった小学校は、震災時、ご遺体の安置所になったそうです。
この津島には現在15人の方が住んでいます。
津島のある一角に同じ形の家が立ち並び、中央に役場がある場所があり、そこに帰ってきた方々が住んでいます。
私たちは津島に一番乗りで帰ってきた国分さんという女性に会いました。
朝早い時間だったのにも関わらず、明るい笑顔で私たちを迎えてくれました。
国分さんは地域の催しを企画し、津島の賑わいを取り戻すリーダーのような方でした。
その先の高校では、建設会社の方が作業をしていました。
その方は震災当時から地元で仕事を行い、遺体の捜索も行っていたそうです。
「この場所にいつでもみんなが帰ってこれるように草刈りやってるんだ」というお話しが印象的でした。
浪江町を走っていて、所々にスクリーニング施設や、中間貯蔵施設に運ばれる前のフレコンバッグ、「この先立ち入り禁止」の看板を見つけました。
そして今でもホットスポットと呼ばれる、放射線量が高い部分があるそうです。
原発事故がもたらした異様な光景は13年が経った今でもあちこちで見ることができました。
次に訪れたのは請戸漁港と、請戸小学校です。
請戸漁港はたくさんの漁船でにぎわっていましたが、震災当時は多くの船が流され、その後原発事故が起き、そして今も処理水の海洋放出など、原発事故によって大きく振り回されています。
すぐそばには請戸小学校があります。
この学校は震災遺構として当時のまま残してある学校です。
1階部分の窓やドアがあった部分はすべて外れ、実際に津波が来た水位が示されていました。
津波は1階部分を完全に浸水させる高さで襲ってきました。
この請戸小学校は、揺れが起きたすぐ後に、地元の漁師さんが大きな津波が来ることを学校に知らせてくれたため、津波で亡くなった方が一人もいません。
津波を正しく恐れ、正しく備える。
その大切さを目の当たりにしました。
次に私たちは双葉町に入り、双葉駅の周辺を歩きました。
双葉駅はきれいに再建され、ここだけ見ると活気づいた元気な町に見えます。
しかし駅から少し離れると、震災から時が止まったままの建物がたくさんあり、人もほとんどいません。
震災前は6000人いたこの地域は、今は100人ほどしか住んでいません。
駅前を中心とした建物に、FUTABA Art Districtとして人の笑顔の絵がたくさん描かれていましたが、実際の町の雰囲気とはかけ離れているようで、早く本物の笑顔があふれる町になってほしいと思いました。
町にある双葉高校も、震災から時が止まった場所の一つです。
ここは夏の甲子園に出場経験のある有名な県立高校でした。
休校扱いになっているそうですが、グラウンドに草が生い茂り、通学で使っていたであろうバスが錆び、廃校のようになっていました。
双葉町を抜け、大熊町に入りました。
大熊町の看板を過ぎるとすぐに目に入るのが、除染をした土を入れたフレコンバッグがあたり一面並べられた、中間貯蔵施設です。
この場所にフレコンバッグは約3000万個あるそうです。
最終処分場はまだ決まっていません。
いつまでも置きっぱなしになったフレコンバッグがある町に帰ろうと思う人はどれくらいいるのか…この異様な場所は多くの人に知ってもらう必要があると思います。
大熊町は震災以前11000人が住んでいましたが、今は790人しか戻ってきていません。
避難指示解除となった地域は町全体の60パーセントで、今も町の4割は避難指示が出ています。
原発に入る前に、富岡町にも行くことができました。
富岡町といえば、夜ノ森の桜が有名です。
8月の青々とした桜の木がずっと続いていて、空が見えなくなるほど緑の葉が生い茂っていました。
この夜ノ森の桜は地元の住民が1本1本植えていて、住民の「プライド」が桜に込められています。
富岡町には福島第二原子力発電所があります。
ここは震災当時、どうにか発電機を動かすことができたため、水素爆発を免れた発電所です。
発電量は福島第一原子力発電所よりも多かったため、ここも事故を起こしていたら被害は福島県だけにとどまらなかったかもしれません。
どうして福島県には福島第一、そして第二を合わせて10基も原発を作る必要があったのか。
なぜ福島の双葉、大熊、富岡の地域に原発が集中しているのか、地域の経済力や職の問題など、様々な課題と向き合わなければいけません。
後編は福島第一原子力発電所内に入った様子をお伝えします。